1.兄弟を訴える者への叱責
・コリント教会の中で、経済的トラブルから、一人の教会員が他の教会員を訴えるという事件が起きた。教会の兄弟同士の間で訴訟沙汰が起きるとは、パウロには理解できないことであった。
−?コリ6:1「あなたがたの間で、一人が仲間の者と争いを起こしたとき、聖なる者たちに訴え出ないで、正しくない人々に訴え出るようなことを、なぜするのです」。
・争いが生じた場合、なぜ教会のしかるべき人の仲裁ではなく、世の裁判所に訴えるのかとパウロは言う。
−?コリ6:2-4「聖なる者たちが世を裁くのです。世があなたがたによって裁かれるはずなのに、あなたがたにはささいな事件すら裁く力がないのですか。私たちが天使たちさえ裁く者だということを、知らないのですか。まして、日常の生活にかかわる事は言うまでもありません。それなのに、あなたがたは、日常の生活にかかわる争いが起きると、教会では疎んじられている人たちを裁判官の席に着かせるのですか」。
・不正があったのなら、何故その不正を甘受しないのか。だまされたのなら、損をしたままでいないのか。
−?コリ6:7「そもそも、あなたがたの間に裁判沙汰があること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです」。
・訴えること自体が、兄弟を赦し愛するというキリストの教えに対する失敗だ。パウロは裁判制度を否定するのではない。それはそれで意味がある。しかし、キリスト者はこの世の基準とは別な基準に動かされるのだ。
−ルカ6:27-28「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」。
・あなた方はかっては罪の中にあった。しかし、キリストの死に預かるバプテスマを受けて清められた。古いあなたは死んだのに、まだ前と同じことをしている。どこにキリストの血の証しがあるのか。
−?コリ6:9-11「正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。・・・みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの名と私たちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています」。
2.体を汚してはいけない
・コリント教会の中には、体は滅びるものであり、体の欲に従ってもそれを汚してもかまわない、娼婦と交わって体が汚れても、魂は汚れないのだと主張する者もいた。そうではないとパウロは言う。
−?コリ6:12「私には、すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。私には、すべてのことが許されている。しかし、私は何事にも支配されはしない」。
・娼婦と交わる者は娼婦と一体になる。あなたの体はキリストのものであることを知らないのか。娼婦と交わることはキリストの体を汚すことなのだ。
−?コリ6:15-16「あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。娼婦と交わる者はその女と一つの体となる、ということを知らないのですか。『二人は一体となる』と言われています」。
・性的な結合は男女を一体とし、一つの肉とする。不品行は自分の体に対する罪なのだとパウロは言う。性は神から与えられた祝福だ。その祝福を汚してはいけない。
−ローマ1:26-27「神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています」。
・不品行を逃れよ。それは不道徳なだけでなく、キリストの肢体に対して罪を犯すことだ。
−?コリ6:17-18「主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。みだらな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです」。
・私たちは罪を犯す自由ではなく、罪を犯さない自由を選び取るのだ。何故ならば、私たちはキリストの血によって贖いとられた存在なのだ。
−?コリ6:19-20「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」。